柴田ヨクサル「ハチワンダイバー」に期待
//このエントリなんて長さだ
言葉を介さず意を交わす
柴田ヨクサルがヤンジャンで妙な将棋マンガを開始して3話目ぐらい。
2006/9/21に読んだエピソードに心動かされた。
散らかった狭い主人公のアパート。
主人公の男と、メイドのコスプレをした女が正座で向き合ってる。
(清掃サービスを呼んだつもりがメイドのコスプレ女が来た。このメイド女、実は棋士で凄く強い。そしてヨクサル的巨乳肉質フリーキースタイル)
プライベートに関わる話題を完全に拒絶された男。
(『なぜあなたは将棋が強いのか教えてくれ』という質問をしたが断られた)
それ以降、会話は無い。
ふたりの間に将棋盤があるが、コマは無い。コマを質に入れてしまったからだ。
つづく沈黙。
ついに男はガクッと目を閉じてしまう。
将棋ばかりしてきたけど、他人への関心が薄かった半生を回想する男。
何を話したらいいんだ?
沈黙を破ったのは男の異様なひとことだった。
「4六歩」
頭の中でパチンとコマが動く。
女も目を閉じて即座に応える。
「2八歩」
めくら将棋を打っている。
もう一度言うが、将棋のコマは無い、盤も使わない、言葉だけの将棋だ。
お互い目を閉じての将棋展開、「3六銀」とかなんとかのやり取りだけが交わされる。
全部で40個あるコマを、頭の中だけで操る勝負の世界。
真剣勝負。
この辺から大ゴマと画力にヨクサル節が冴え煽り、テンションが一気に上がる。
『将棋と言うのは、勝負が進むにつれ
『こんなに深い会話をしたのは初めてだ』
『彼女は、はじめから将棋が強かったわけじゃない』
↑ここ感動ポイントですよ。
おれの感動ポイント
おれはこんな言葉を使わないコミュニケーション表現にひかれる。
あ、言葉だった、思いっきり言葉じゃねえか。
いや、単語オンリーのやり取りだけで、
少なくとも男の内部では、それまでの言葉コミュニケーションでは無理だった意思の伝達が出来てしまってる。一方通行かも知れないけど、女は最初から将棋が強かったわけじゃない事を勝負の中で感じ取った。言葉による質問では聞き出せなかったものを、勝負を通じて引き出せたのだ。
という表現におれは感動するわけですよ。
格闘マンガでよくあるでしょ、拳で語り合う世界が。
格闘(ギャグ)マンガを描き続けた柴田ヨクサルが、今回題材にしたのは将棋、今回のエピソードで今後に期待が持てるようになった。
局面に「はなし」とルビを振ってる辺り、将棋を通して人生さえも垣間見えた(と主人公は思ってる)シーンがあるのは、言語以外のコミュニケーションに作者が自覚的なんじゃないかなと勝手に想像し、期待するのである。
会話もおぼつかなかったのに、女が「2八歩」と反応してしまうところがミソですよ。
きっと言語コミュニケーションをあきらめた不器用な者同士の異文化マンガの幕開けだと取りました。
今までの作品
そういえば、前作「エアマスター」の最後のほうも、異様な格闘世界が繰り広げられており、そこに言語を超越した意思疎通が描かれてた気がする。
しかも異種格闘技なので、異種間のコミュミケーション。
プロレスvs暗器。ケンカvs酔拳。自転車vsカメハメ波。かみ合わない。自己顕示欲だけの奴がいたり(崎山香織、懐かしい)。そういや主人公は新体操ベースのオリジナル格闘技だったな。
格闘技だけに留まらない。
格闘技でしか意思疎通が出来ない(そこまで行ってないか...)世界で日常を送る者同士の恋愛が面白かった。
強引に押し進めると、殺し屋イチのロマンチックシーンを連想する部分があった気がする
ちょっと離れたところで新堂冬樹「
「エアマスター」は暴力でしか自己を表現/認識できない、みたいなの面白かったなあ。
不器用な人間同士が、格闘技や、将棋などで自己を表現していくという物語に個人的にひかれる。
そういえば、棋士は将棋以外はかなりだめ人間てどっかで聞いたことがある。
あの絵柄健在
柴田ヨクサルと言えば、異様な高揚感をもたらす熱血描写と、独特の肉質の絵柄。それは今回の将棋マンガでも発揮されている。
大ゴマも健在。
と言うか、フラミンゴ(*)に載ってそうな完全にフリークスな、あの気持ちの悪い巨乳が妙に好きというか、腐りかけのグラビアアイドルというか、あんないかれた表現もっとやってくれて欲しいよ。
「エアマスター」のマキのセックスとか正気の沙汰とは思えなかった。
しかも紹介サイトでそのいかれたセックス描写を、次の巻はエロエロです、みたいに評してて、視点おかしくねーか、と思ったけど、
それはそれで正しいファンなんだろうな。
横道にそれたまま締まらない。
ちなみに
2日ぐらい前の記憶だけで書いてるので、細部は多分間違ってるけど、その方が面白いと思った部分を拡大して書けてると思うので、今ある記憶だけで書いた。故に勝手な脚色も混ざってます。
そもそも、「ハチワンダイバー」という題名は今知った。
更にちなむと、
テクノのリミックスとかDJにも似たようなものを感じ取っている。原曲をいかに解釈するか、どこを強調するかの取捨選択の旨さや意外性が、曲を通じた原作者とミキサーのコミュニケーションのようなものを感じる。
そういうのが解らない著作権だ何だと五月蝿い奴らはみんな死ねばいいと思う。
小説やマンガの映画化も同じ事である。
でびるまんを作った奴と作らせた奴はみんな死ねばいいんだ。渋谷飛鳥以外。
やばい
1エントリがクドくなってきた。